2009-07-27

しんとくまると口頭伝承

坂部恵「かたり」を読んで著者のするどい感受性に感嘆した。
折口信夫の「しんとくまる(身毒丸)」を引き合いに出して森鴎外の山椒太夫の持つ限界を指摘し、柳田国男の構想の真意をあざやかに浮き彫りにしている。
<かたり>というような大きな言語行為の考察にあたっては、送り手、受け手をともに含めたその<主体>は、当然のこととして、個人のレベルをはなれて、より大きな共同体の<相互主体性>のレベルにまで、さらにときには神話的想像力の遠い記憶の世界にまで及ぶ下意識あるいはいわゆる集合的無意識のレベルにまで拡大深化されることがほとんど不可欠の前提となる。しかし、まさにこの領域こそ、さまざまの努力にもかかわらず、現代の哲学・人文科学がなお多くの未開拓といえる部分をのこしている当の分野にほかならないのである。(34ページ)
現在のフランス語やスペイン語にはかたりの時制のなかにさらに半過去ないし未完了過去と単純過去という区別が見られるそうだ。単純過去はギリシャ語など古典語の文法においては通常<アオリスト>と呼ばれるものにあたり、現代語においては文章語にしか使用されることがない。そして、この<アオリスト>は悲劇をはじめとする文学作品の<かたり>において頻繁に使用され、さまざまな用法をもっている。<かたり>の時制は単なる過去というよりは、まさにかたりという独特の発話の態度の相関者としての特有の時間の存在様相にかかわるものであることを示している。(80ページ意訳)
そして、坂部はこう述べている。
わたくしは、かねてから、まったく仮のはなしとしてではあるが、アオリストを、悲劇の舞台上のヒーローやコロスのかたりに痕跡を残す神がかりした巫祝のかたりの時制でもあったと想定してみると、さまざまな用法を持っているアオリストの時制は容易にひとまとまりのとりわけての<かたりの時制>として説明できるのではないかと考えている。(81ページ)
そして、ヴァインリヒの用語にいう<ゼロ段階>と<回顧時制>のみを持ち、<予見時制>を持たないというアオリストの特質が、おなじ<かたりの時制>でも<背景の時制>のほうは、実際のかたりにおいてしばしばきわめて重要な役割を演ずる<予見時制>をもつのと際立った対照をなすと指摘している。
すなわち、アオリストが<予見時制>をもたないということは、いいかえれば、この時制に限って、ヴァインリヒのいう「先行情報に必然的に付随している不確実性」にあずかることがたえてないことを意味すると考えられる。(162ページ)
物語の図柄を際立たせる<前景の時制>としてのアオリストは、この点で他のすべての時制に対して例外をなし、まさに、(むしろ、<回顧時制>の特質としての)確定的な定まった過去の1回的でかつ繰り返し不可能、逆転不可能な出来事を述べることをその特別な役割としてもつ。(163ページ)

坂部恵のこれらの指摘は「他者のような自己自身」(ポール・リクール)を読んだ直後だけに心にしみわたる響きがあった。
私は、かねてから不可能なことをどう表現したらよいのかわからなかったが、ここにヒントがあると感じた。